2009年2月23日

河越 の日常アリバイ会社名主のこと

名主のことについて面白い見解がありました。

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11世紀後期?12世紀ごろになると、田堵負名層は名主(みょうしゅ)と呼ばれるようになった。この時期、荘園や公領を支配・収取の単位とする体制、すなわち荘園公領制が確立したが、名主は荘園公領制の基盤を支える階層といえた。荘園公領制の進展の中で、国司・荘園領主から認められた名田に対する諸権利は、名主職(みょうしゅしき)として確立していった。

名田において、名主は百姓らから年貢・公事・夫役を徴収し、国司や荘園領主へ納入する義務を負っていた。また、名主は、百姓から徴収した中から加地子を中間得分として自らの収入としていた。さらに下人・所従と呼ばれる隷属民を使役して、国司・領主から承認された給田・免田や自らの屋敷周辺に設定した私的な田地を耕作させる者もおり、その場合、収穫物は全て名主の収入となった。

名主の立場には二面性があった。国司・荘園領主などの支配層から見れば、名主は支配される側、すなわち被支配者だったが、一般百姓らから見れば名主は現地における支配者だった。このように、名主の性格は一概に説明できるものではなく、名田を経営した階層と広義に解釈されている。

また、名主は、畿内周辺では農業経営に携わる有力百姓としての性格が強かったが、その他の地域では豪族的な者もおり、特に関東では武士の郎党的な者も多かった。12世紀末に鎌倉幕府が登場すると、特に東国の名主の中には、幕府に帰参して御家人となり、地頭に補任される者も現れた。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』